語り:大杉漣
プロデューサー:髙橋卓也 監督・構成・撮影:佐藤広一
証言協力:井山計一 土井寿信 佐藤良広 加藤永子 太田敬治 近藤千恵子 山崎英子 白崎映美 仲川秀樹
企画・製作:認定NPO法人 山形国際ドキュメンタリー映画祭 映像提供:山形放送 協力:山形大学社会科学部付属映像研究所
音声技術:折橋久登 整音:半田和巳 製作助手:稲田瑛乃 宣伝美術:菅原睦子 玉津俊彦 協力プロダクション:ZACCO 製作協力:大久保義彦 成田雄太 オフィス佐藤
配給:アルゴ・ピクチャーズ 配給協力:MAP
(2017年/日本/67分/カラー(一部モノクロ)/DCP・Blu-ray/16:9)
©認定NPO法人 山形国際ドキュメンタリー映画祭
上映ベルの代わりにジャズの名曲「ムーンライト・セレナーデ」が流れると、暗がりの中で大好きな映画が始まる……。「西の堺、東の酒田」と称された商人の町・山形県酒田市に、映画評論家・淀川長治氏が「世界一の映画館」と評した伝説の映画館、グリーン・ハウスがあった。回転扉から劇場に入ると、コクテール堂のコーヒーが薫り、バーテンダーの居る喫茶スペースが迎える。少人数でのシネサロン、ホテルのような雰囲気のロビー、ビロード張りの椅子等、その当時東京の映画館でも存在しなかった設備やシステムを取り入れ、多くの人々を魅了したそこは、20歳の若さで支配人となった佐藤久一が作り上げた夢の映画館。だが、多くの家屋や人々に被害をもたらした1976年の大火災・酒田大火の火元となり、グリーン・ハウスは焼失してしまう。それから40年余りの時を越えた今、「ムーンライト・セレナーデ」が流れるあの場所へかつて集った人々が、煌めいた思い出をもとに言葉を紡いでいく……。 2018年2月に急逝した名優・大杉漣氏のナレーションにのせて贈る、忘れ難い場所を心に持つ人々の証言集。
生きることの悩み、苦しみ、悲しみ、そして喜びなどの一切の縮図が映画館の中に繰り広げられる。
このような映画の内容から例えどんなにささやかでも、
みんなが倖せになるための種子を摘みとって頂ければ私達の喜びはこれに過ぎるものはない。
私は映画が皆さんから強い共感を得られたほど幸福なことはない。
私はこの幸福を味わいたいためにもよりよい映画を、
そしてよりよい環境を創り出す仕事に今後も全力を尽くしていきたいと思っている。
緑館支配人 佐藤 久一
1930年、山形県酒田市出身。日本酒醸造元「金久酒造」を経営する名家で生まれ育つ。20歳で大學を中退し、父が経営していた映画館「グリー
ン・ハウス」支配人に就任。就任当時業績不振だった「グリーン・ハウス」を上映作品の吟味、新たな映画作品をかける度に「グリーンニュース」(後のグリーンイヤーズ)という無料の小冊子の発行、古い建物を大改装する等努力を重ね、洋画専門館として知る人ぞ知る存在となっていく。中でも、映画評論家の淀川長治氏と荻昌弘氏は繰り返し足を運んでおり、淀川氏は「グリーンイヤーズ」の300回記念号で「私の拍手」というタイトルの原稿で「こんな館を持つ酒田が羨ましい」と絶賛している。また、1963年の週刊朝日では「あれはおそらく世界一の映画館ですよ」と淀川氏が記したことにより、全国的に「グリーン・ハウス」の名前が知れ渡ることとなった。
1951年、徳島県出身。74年に太田省吾率いる転形劇場に入団。「水の駅」をはじめ一連の" 沈黙劇シリーズ" などで演技力を磨く。80年、高橋伴明監督の『緊縛いけにえ』で映画デビュー。88年の転形劇場解散後も舞台、映画、TVへの出演を続ける中、北野武監督作『ソナチネ』(93)のヤクザ役で注目を浴び出演作が増え、北野監督の『HANA-BI』(97)や『犬、走る DOGRACE』(98 /崔洋一監督)などの演技でキネマ旬報、ブルーリボン賞、日本アカデミー賞など多数の助演男優賞を受賞。以降は映画、テレビドラマに欠かせない名脇役として、また時には主演俳優として、超大作から学生の自主映画まで幅広く活躍。2018年2月、惜しくも急逝。主な出演作に『ポストマンブルース』(97/SABU 監督)、『エクステ』(07/園子温監督)、『ネコナデ』(08/大森美香監督)、『蜜のあわれ』(16/石井岳龍監督)、『シン・ゴジラ』(16/庵野秀明・樋口真嗣監督)、『アウトレイジ 最終章』(17/北野武監督)、『恋のしずく』(瀬木真貴監督)など。2018年10月6日より主演・プロデュース作品『教誨師』(佐向大監督)が公開。2013年の山形放送開局60周年記念ラジオドキュメンタリードラマ「港町の幸福な昭和〜日本一と世界一を酒田から発信した男〜」への出演がきっかけとなり、本作へのナレーション参加につながった。
1977年生まれ、山形県出身。1998年、第20回 東京ビデオフェスティバル(日本ビクター主催)にて、短編映画「たなご日和」でゴールド賞を受賞。監督作に、「隠し砦の鉄平君」(株式会社BBMC)、DVDドラマ「まちのひかり」(特定非営利活動法人 エール・フォーユー)がある。ドキュメンタリー映画「無音の叫び声」(16/原村政樹監督)、「おだやかな革命」(17/渡辺智史監督)、「YUKIGUNI」(18/渡辺智史監督)では撮影を担当。
Director’s Comment元を辿れば本作は、山形国際ドキュメンタリー映画祭2017で上映される短編作品として、映画祭自らが企画しました。監督を引き受けて取材を重ねていくうちに、「これは短編に収まるような題材ではない」ということに思い至り、長編化を提案しました。映画祭の高橋卓也プロデューサーが快諾してくれたこともあり、取材は続きました。その後も取材先で元チケットガールの山崎英子さんを紹介してもらうなどの幸運に恵まれました。
私自身、もちろん酒田に伝説の映画館があった、しかも大火の火元になったということは知っていました。しかも山形の映画関係者に大きな影響を与えているということも。この機会にきちんとまとめなければいけない、という思いを強くしました。映画祭事務局でも地元新聞社を通じて当時の資料募集を呼びかけるなど、この映画制作に大きな期待を寄せてくれました。「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」(講談社刊)の著者・岡田芳郎さんからは何度もアドバイスを頂き写真も提供して下さいました。
さらには名優・大杉漣さんがナレーションを引き受けてくださるという大きな幸運にも恵まれました。酒田と大杉さんとのつながりが、山形放送のラジオ番組で既にあったこと。大杉さんと懇意にしているシネマ・パーソナリティーの荒井幸博さんが山形にいたこと。16年前、大杉さんが主演する自主映画に私がスタッフで参加していたこと、などの巡り合わせがあって実現にこぎ着けられたように思います。
ナレーション収録時に大杉さんから、「心ある丁寧なドキュメンタリー作品」と本作を評して頂き、ここに辿り着くまでの過程を労ってくれました。いま思い返しても、感謝の思いでいっぱいです。
「実は酒田には、まだグリーン・ハウスが存在しているのではないか」と思わせるほどの鮮明な記憶と愛情に満ちた証言の数々が、この映画には収められています。
井山計一
1926年(大正15年)生まれ
日本を代表するカクテル「雪国」を考案した伝説のバーテンダー。
「雪国でもらったトロフィーを、久ちゃんがグリーン・ハウスに飾るからって持っていって、1年間返ってこなかった(笑)」※久ちゃん(元 グリーン・ハウス支配人 佐藤久一)
土井寿信
1956年(昭和31年)生まれ
グリーン・ハウスで「タワーリング・インフェルノ」を2回観た元消防士 。
「消防士として頑張ろう、と思わせてくれた映画館が大火の火元になったのは、残念で因果的な出来事でした」
佐藤良広
1958年(昭和38年)生まれ
映画サークルあるふぁ'85
「バレーボール部だったんです。部活がおわったらすぐ、グリーン・ハウス!」
加藤永子
1949年(昭和24年)生まれ
かつてグリーン・ハウスに通いつめた映画ファン 。
「グリーン・ハウスに朝から行って夕方まで、何回も同じ映画をぐるぐる観てました」
太田敬治
1931年(昭和6年)生まれ
元 グリーン・ハウス映写技師。
「スクリーン脇にその日の映写担当者の名前を出したのは、この辺じゃ初めてじゃないかな」
近藤千恵子
1949年(昭和24年)生まれ
ティーギャラリー サライ経営者。
「酒田はグリーン・ハウスで出していたコクテール堂の珈琲豆を、町内のお店でもみんな使っている不思議な街」
山崎英子
1933年(昭和8年)生まれ
元 グリーン・ハウス従業員(チケットガール)。
「スクリーンの前いっぱいに生花を飾ったり、あそこまでお金をかける映画館はなかった」
白崎映美
1962年(昭和37年)生まれ
歌手(白崎映美&東北6県ろ~るショー!!)
「グリーン・ハウスは憧れの場所。いまでもお洒落で高級だったイメージがある」
仲川秀樹
1958年(昭和33年)生まれ
日本大学教授・博士(社会学)
「東京、酒田同時ロードショーというのは、(当時)地方都市に住む高校生としては、ある種の誇りというか、プライドのようなものがありました」
山形県の北西にある人口約11万人の市。庄内北部の都市である。庄内空港と山形県唯一の重要港湾酒田港がある。この地には平安時代朝廷が出羽国の国府として築いたと考えられる城輪柵跡があるように、地域の歴史は古い。酒田の街は袖の浦(現酒田市宮野浦)に移り住んだ奥州藤原氏の家臣36人が、1521年頃最上川の対岸に移り、砂浜を開拓し作ったと言われる。袖の浦は中世には貿易の中継地だった。1672年、河村瑞賢が西廻り航路を整備すると、酒田はますます栄えるようになり、その繁栄ぶりは「西の堺、東の酒田」ともいわれ、秋田の外港土崎湊と並び、羽州屈指の港町として発展した。日本永代蔵に登場する廻船問屋の鐙屋(あぶみや)や、戦後の農地改革まで日本一の地主だった本間家などの豪商が活躍し、町は三十六人衆という自治組織により運営されていた。元禄2年6月13日(1689年7月29日)に松尾芭蕉が奥の細道で訪れている。
1976年(昭和51年)10月29日に山形県酒田市で発生した大火。この火災で酒田市中心部の商店街約22万5000m2を焼失した。一般市民に犠牲者は無かったが、酒田地区消防組合の消防長1名が殉職した。戦後4番目の大火である。「グリーン・ハウス」が火元となり、すぐに観客20名は避難したが当日の酒田市は風が強く、またたく間に隣接していた木造ビルや木造家屋に燃え広がった。 日付が変わった30日の午前3時には火勢は新井田川まで迫ったものの、対岸からの直上放水実施や降雨の影響で延焼を食い止めることが出来たことにより、午前5時に鎮火した。
ジャズのスタンダード・ナンバーのひとつ。1939年にトロンボーン奏者のグレン・ミラーにより作曲されたスウィング・ジャズの代表曲のひとつであり、グレン・ミラー楽団のバンドテーマとなっている。オリジナル・アレンジはクラリネットをフィーチャーしたビッグバンドのスローナンバーであるが、のちに様々なアレンジで多くのバンドによりカバーされている。映画『スウィングガールズ』(04/矢口史靖監督)の演奏シーンにも登場した。
戦後間もない1949 年に虎ノ門にオープンしたコーヒー豆の焙煎メーカー。現在は東京・虎ノ門の本社、山梨・韮崎の焙煎工場で日本で唯一のエイジングコーヒーを製造・販売している。父に同行してロシア人宅に滞在したとき、創業者の林玄は毎朝飲むオールド・ビーンズコーヒーの虜となる。帰国して終戦を迎えた玄はそのコーヒーを商売にしようと思いたち、後のエイジングコーヒーが誕生した。
1989年に山形市政100周年を記念して第一回が開催され、当時、山形県上山市牧野村で活動していたドキュメンタリー映画監督の小川紳介監督が準備段階から関わり、山形県内各地の有志が参加。以降隔年で山形市で開催し、国際交流基金による2006年度国際交流奨励賞・文化芸術交流賞受賞。ドキュメンタリーのための映画祭ではアジア地域で初のもので、アジアを中心に世界中の映画作品や監督が集まる交流の場となっている。コンペティションは、インターナショナル・コンペティション部門と、アジアのドキュメンタリー作品を対象としたアジア千波万波部門がある。
昭和20年代、娯楽に飢えた日本人は争って洋画を観た。衣食住すべてを失った大衆にとってそこに描かれた物語だけが希望であり、救いであったからだ。アメリカ映画を観た人々は「自由と豊かさの象徴」としてのアメリカに憧れ、いつかスクリーンの中のような暮らしをしたいと夢を膨らませた。映画館は娯楽の伝道であるばかりでなく、人々に前に向かって進むエネルギーを与える役割も果たしていたのである。
戦後、日本人が洋画を観られるようになったのは、1946年(昭和21年)1月にアメリカ映画輸入のためのセントラル映画社(CMPE)が、GHQの外郭団体として設立され、同年2月28日に、『キューリー夫人』と『春の序曲』が、封切り館で公開されてからである。当時、映画館は常に超満員状態で、入館のために長時間行列をすることや立ち見になることは当たり前であり、客席に入りきれない人々が廊下で辛抱強く次の上映回を待つ光景も、珍しいものではなかった。そこで、東京・有楽町の駅前に1946年(昭和21年)の大晦日に、アメリカ映画封切り館として開館したスバル座は一計を案じ、翌年3月、「帝都唯一のロードショウ劇場」という謳い文句で、装いも新たにスタートしたのである。
スバル座は全館座席指定、各回入れ替え制という新システムを導入した。これが予想以上の人気を呼び、入場料金は25円(一般映画館は10円)と割高だったが、人々は映画をじっくり楽しむために高い料金を払うことを厭わなかった。当時、映画館とは流行発信基地であり、とくにアメリカ映画を観ることは、最新情報を仕入れるために必要不可欠なことだったからである。スバル座の入り口は、広い階段を上った先のアプローチスペースの突き当たりにあり、ベージュ色のモダンな外装とシンプルな内装がアメリカ的な匂いを発散していた。スバル座の成功以降、続々と名乗りを上げたロードショウ映画館は、デートはもちろん、お見合いの待ち合わせの場として利用されることもしばしばであった。
グリーン・ハウスは、スバル座とは何から何までおよそ比較にならなかった。久一は陣頭指揮をとり、グリーン・ハウスの大改装に取り組んでいく。入り口を回転ドアにしたのは久一自慢のアイディアである。当時回転ドアは東京や大阪のホテルなどでしか見かけなかったが、そこに久一は目をつけたのだ。舞台の縁には、季節の花が咲き誇る鉢が上手から下手まで隙間なく並べられ、館内には常に快い花の香りが漂っている。客席のむき出しの板壁をグリーンの滑らかなビロードで覆うと、グリーン・ハウスは見違えるような豪華な空間に変身した。
あるとき久一は、開映のベルの代わりに「ムーンライト・セレナーデ」を流すことを思いつく。場内の休憩時間表示が10分から5分、4分と変わっていくとムーンライト・セレナーデが流れだし、その音量が次第に小さくなるのに合わせて、グリーンの緞帳が静かに上がる。ステージ右端の生け花と左端の白い女性の像のスポットライトだけが残り、それも消えるとレースの幕がするすると開き、スクリーン上に映画が映し出される。酒田の人々に映画を最高の状態と雰囲気で観てもらうことに、久一は心を砕き続けたのである。
「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」(講談社刊)より抜粋/著・岡田芳郎
※スバル座は『アメリカ交響楽』上映でオープン。日本で初めて「ロードショウ」という単語を使用した映画館とされる。アメリカ映画を数多く上映し、客足を集めたが、1953年(昭和28年)に火災で焼失してしまう。それから13年後の1966年(昭和41年)に現在の「有楽町スバル座」として復活を果たす。
授賞式でも行われるような綺麗な映画館とスクリーンがあったことや、火事であれだけの範囲が焼失してしまったことなど大変興味深く拝見しました!
市原洋(俳優)「カメラを止めるな!」片腕メガネゾンビ役
平日の昼間にグリーン・ハウスで映画を観たような至福な時間を過ごさせて頂きました! 劇場の外へ出たら何故か酒田の街並みにいるようで、「ケルン」を探して雪国を一杯やって帰りたい衝動に駆られました。これも監督の狙いだったのでしょうね!
河村永徳(映画監督)
戦後10年という昔の話ですが、「グリーン・ハウス1年無料券」を懸賞で当てた父は、何とか妻と喜びを分かち合いたく「半年2人無料券」にしてもらえないだろうかと無茶をお願いし、叶ったそうでした。その粋な計らいで、僕と妹を子守りに託しては、何とも幸せな映画館デートが続き、その後間もなく白血病を発症した父の、何よりの思い出となったようでした。 12年後、高校生となった僕もやはりグリーン・ハウスで見る名画の虜となり、「卒業」「ウエストサイドストーリー」等々‥、物語、映像、そして音楽!! 全てに夢中になったものでした。 更にそれから14年経ち、僕はヨーロッパの西の果て、リスボンの国立歌劇場でデビューの時を迎えました。長いカーペットのエントランスを抜けると、これまた深紅のビロード張りの客席とカーテン。日本には無い、典型的な昔ながらのオペラハウスでの、いきなりの主役です。もしグリーン・ハウスに通ったあの頃がなければ、異文化に圧倒されて、たじたじとなったに違いありません。ヨーロッパの伝統的な劇場を模した、あのグリーン・ハウスにそっくり、となつかしさに包まれながら、大勢のキャスト、合唱、オーケストラ、全員ヨーロッパ人の中で、臆することなく「トゥーランドット」のヒーロー役、カラフ王子を歌い切ることが出来たのです。 今でもグリーン・ハウスは、ふるさと酒田の豊かな文化の象徴として、僕の中で燦然と輝き続けています。
市原多朗(酒田市名誉市民・オペラ歌手)
グリーン・ハウス営業中に俺が酒田市にいたら入り浸ってるな!
石丸謙二郎(俳優)
全国に点在する地元の映画館が作り出す独特で愛おしい小世界…その最たるものを象徴するかのようなグリーン・ハウス。伝説の映画館が映画を観せるために使った数々の魔法…その魔法をかけた人々、そしてかけられた人々の言葉が、客席やロビーやスクリーンに隠された秘密を明かしてくれる。観終わった後、あたかも本作をグリーン・ハウスで観たような錯覚が残った。そして、隣の席には大杉さんがいたような空気も残った。
津田寛治(俳優)
上質な映画をもてなしていた映画館の事が映画の中で語られる。そんな関係性が無限ループのように感じられて面白い。姿なきグリーンハウスは取り巻いた人々の記憶の言葉で蘇り、大杉漣さんの言霊と共に永遠となった。映画と映画館が改めて愛おしくなりました。
田中要次(俳優)
地方の町にとびきり洒脱な文化の薫りをもたらし、こよなく愛された映画館が、町じゅう灰燼に帰すほどの大火の火元となってしまった悲劇。だが、焼失から40余年を経て今もなおいきいきとこの劇場の麗しき記憶を語る人びとは、申し合わせたようにその悲劇の核心に言及しない。映画と音楽と珈琲を愛した粋人が、凝りに凝った劇場を興し、もてなし心をこめて地元の人びとに贈り届けたココロの宝物。その蓄積は、大火が奪ったモノの数々よりもかけがえのないものだったということを、この沈黙が雄弁に物語る。そしてそこが、この穏やかに進行するドキュメンタリーの紙背にひそむ、最もドラマティックなところなのである。
樋口尚文(映画評論家・映画監督)
既に存在しない映画館のドキュメンタリーって成り立つのだろうか?と、正直半信半疑でしたが、映画館だけではなく酒田の町と、昭和の風俗史を巧みに絡めた構成に感心いたしました。何よりも、大火の原因となった負の歴史を背負う映画館を真正面から見つめるという点において、(不謹慎かも知れませんが…)ある意味スリリングだった事が最後まで観客側のテンションをキープ出来た要因だったと思います。やはり映画館って素晴らしい場所ですね。
大屋 尚浩(「港町キネマ通り」支配人)
スクリーンに映し出されるのは話す人の顔。見ている私に見えてきたのは、見たこともない「グリーン・ハウス」という『世界一と言われた映画館』。回転ドア、ビロードの椅子、スクリーン、並ぶ花々、急な階段・・・。そして、コーヒーの香りまでしてくる。からだの中の記憶はその人と共に生き続け、その人を支えていることを実感したトリビュート・フィルムでした。
森田惠子(『まわる映写機 めぐる人生』監督)
海外だろうが国内だろうが私はどこかを訪れたら必ずその土地の映画館で映画を観る。シネコンだろうが単館だろうが映画館の空気を感じる事で私はその土地の魅力を測る。もしもグリーン・ハウスが現存していたら私は迷わず酒田市への永住を決める事だろう。映画館を主人公としたこの映画。文化の発信基地として愛され、大火の火元として蔑まされた世にも複雑な主人公のドラマを是非とも多くの人に見届けていただきたい。
後藤ひろひと(劇作家・山形県出身)
幼い時分に観た映画を思いだすとき、私の脳裏には映画館の情景が同時に浮かんでくる。手描きの大看板や切符売り場に座る受付嬢、年季が入った椅子に緋色の厚い緞帳……なぜだろう、「世界一と言われた映画館」を鑑賞していると、その頃の景色がよみがえってくるのだ。「ムーンライト・セレナーデ」の調べに乗って、思い出という名のフィルムがカラカラと回りはじめるのだ。知らないはずなのに、なつかしい。そんな世にも不思議な体験を、映画の魔法を感じたければ、この作品を観るべきだ。そうか。「グリーン・ハウス」は、港町にかけられた美しい魔法だったのかもしれない。
黒木あるじ(作家・山形市在住)
コーヒーの薫りが漂うグリーン・ハウスに入ると、開幕ベルの代わりに「ムーンライト・セレナーデ」が流れて映画が始まる。それだけでもう、高校時代、愛知県の刈谷日劇で『グレン・ミラー物語』を見て、近くの喫茶店で、いまも持っているチラシを読んでいたわたしにはジーンときた。拙作『酒中日記』を見てくれたという佐藤広一監督は世界一の映画館を作った佐藤久一がまだ存命中に撮影を開始したかっただろうなと思ったりした。
内藤誠(映画監督)
近年の変化の激しい時代に我々がまず学ばなければならないのは歴史である。それも、あえていわせてもらうと戦後昭和の「あだ花」として狂い咲いたこの映画館グリーン・ハウスのことは、しっかりと記録と記憶にとどめ、研究を深めていく必要があると思う。この映画はその嚆矢となるだろう。
岩崎夏海(作家)
「ムーンライト・セレナーデ」によって映画の世界に誘われる空間と時間とは、とても贅沢だ、と思った。40年前の酒田大火により焼失した映画館グリーン・ハウス。40年後にグリーン・ハウスを愛した人々の思いが募り、私たちの眼前に甦った。素敵な時間を堪能できた・・そんなとても大切な映画である。
稲塚秀孝(映像プロデューサー)
素晴らしい映画館がかつて山形の酒田にあった。そこで最後に上映されていた映画は大傑作『愛のコリーダ』ともう一本『グリーンドア』。私はカナザワ映画祭で見た。 グリーン・ハウスで最後に見た映画が『グリーンドア』だった人もいるはずで、世界一の映画館で見た最後の映画が、世界一つまらないポルノ映画だった人の気持ちを思うと、たまらないものがある。 『グリーンドア』には時間とお金を返せという気持ちしかなかったのだが、こうしてグリーン・ハウスの映画で振り返る機会があり、数奇な縁を感じた。 映画も映画館と同じく素晴らしかったです! 映画館が映画になるなんて『ニュー・シネマ・パラダイス』みたいですね!
古泉智浩(漫画家)
酒田市。訪れたことはないが、城下町があり、読み方は違うが仲町があり、そして大火があり……と、川越との共通点を多く感じ、親近感が湧いた。そんな街にあった映画館、グリーンハウス。うちとは比べ物にならない豪奢な建物だが、支配人の故佐藤さんの興行にかける思いは、私自身の抱く思いとなんら変わることはなかった。いろいろな事情があるにせよ、愛されたひとつの映画館がなくなったことがただただ悲しい。
飯島千鶴 (川越スカラ座)
映画館の仕事をしながら、いつも他所の映画館に思いを馳せている自分がいます。この映画がつくられたことによってグリーン・ハウスに同じように思いを馳せるひとが増えるにちがいないことがとてもうれしいです。 大小を問わず、場所も国も問わず、まちの映画館よ永遠なれ。
椿原敦一郎(立川シネマシティ)
なんて素敵な時代 なんて素敵な映画館! 私もムーンライトセレナーデを聞きながらグリーンハウスで映画を観たかったなぁ。 最近、多くの映画館が惜しまれながら閉館していくなか、まだまだ頑張っている小さな町の映画館は、映画愛に満ちた支配人さんとスタッフの皆さんに大切に守られています。 映画を観た後は、自分にとって世界一の映画館を見つけてほしいです。
森田真帆(映画ライター / 別府ブルーバード劇場館主補佐 )
都道府県 | 劇場名 | 電話番号 | 公開日 |
---|---|---|---|
岩手県 | フォーラム盛岡 | 019-622-4770 | 上映終了 |
青森県 | フォーラム八戸 | 0178-38-0035 | 上映終了 |
宮城県 | フォーラム仙台 | 022-728-7866 | 上映終了 |
山形県 | イオンシネマ天童 | 023-665-1166 | 上映終了 |
山形県 | イオンシネマ米沢 | 0238-24-3300 | 上映終了 |
山形県 | イオンシネマ三川 | 0235-68-1661 | 上映終了 |
福島県 | フォーラム福島 | 024-533-1515 | 上映終了 |
都道府県 | 劇場名 | 電話番号 | 公開日 |
---|---|---|---|
千葉県 | シネマイクスピアリ | 047-305-3855 | 上映延期 |
群馬県 | 高崎映画祭 | 027-388-9649 | 上映中止 |
東京都 | シネマ・チュプキ・タバタ | 03-6240-8480 | 上映終了 |
東京都 | 有楽町スバル座 | 03-3212-2826 | 上映終了 |
埼玉県 | 深谷シネマ | 048-551-4592 | 上映終了 |
東京都 | 立川シネマシティ | 042-525-1251 | 上映終了 |
東京都 | キネカ大森 | 03-3762-6000 | 上映終了 |
東京都 | ココマルシアター | 0422-27-2472 | 上映終了 |
神奈川県 | あつぎのえいがかんkiki | 046-240-0600 | 上映終了 |
神奈川県 | 横浜シネマリン | 045-341-3180 | 上映終了 |
埼玉県 | 川越スカラ座 | 049-223-0733 | 上映終了 |
茨城県 | あまや座 | 029-212-7531 | 上映終了 |
栃木県 | 宇都宮ヒカリ座 | 028-633-4445 | 上映終了 |
長野県 | シネマポイント | 026-235-3683 | 上映終了 |
新潟県 | 高田世界館 | 025-520-7626 | 上映終了 |
新潟県 | シネ・ウインド | 025-243-5530 | 上映終了 |
長野県 | 上田映劇 | 0268-22-0269 | 上映終了 |
都道府県 | 劇場名 | 電話番号 | 公開日 |
---|---|---|---|
愛知県 | 名古屋シネマテーク | 052-733-3959 | 上映終了 |
石川県 | 金沢シネモンド | 076-220-5007 | 未定 |
都道府県 | 劇場名 | 電話番号 | 公開日 |
---|---|---|---|
大阪府 | 第七藝術劇場 | 06-6302-2073 | 上映終了 |
京都府 | 京都シネマ | 075-353-4723 | 上映終了 |
兵庫県 | 元町映画館 | 078-366-2636 | 上映終了 |
広島県 | 横川シネマ | 082-231-1001 | 上映終了 |
都道府県 | 劇場名 | 電話番号 | 公開日 |
---|---|---|---|
鹿児島県 | 鹿児島ガーデンズシネマ | 099-222-8746 | 上映終了 |
大分県 | 日田シネマテーク・リベルテ | 0973-24-7534 | 上映終了 |
福岡県 | KBCシネマ | 092-751-4268 | 上映終了 |
佐賀県 | シアターシエマ | 0952-27-5116 | 上映終了 |
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」でタランティーノが描こうとしている世界観は、まさにこの映画と同じで、当時の酒田市の情景と一致します。単なる古き良きシネマの時代というノスタルジーだけでなく、そのことで人生が変わった人たちの物語です。 映画が単なるコンテンツではなく、コーヒーの匂い、ビロードの質感、揺れる柳の木、そんなものをひっくるめた街や人生も呑み込んでしまうような象徴だったんだと思います。 ふと我に返ると、自分自身も田舎で育って、お小遣いを握りしめて、映画館へ足を運び、喫茶店に入ってパンフレットを貪るように読んでいました。 酒田の物語を観ながら、自分自身の記憶を旅できる作品でした。
三宅伸行(映画監督)